2011年3月11日14時46分、私はRIOさんとお昼寝中でした。
ガタガタガタガタ
去年から何度と無く地震はありましたが、強い揺れにすぐ目が覚めました。
RIOさんはまだ寝てる。(ナゼ・・・)
でも、先述(2010年1月17日日記"備え"参照)の通り、阪神・淡路大震災の時、西宮のマンションの6階で震度6を経験した私は、2階でこの程度の揺れなら死にゃーせんわいと思っておりました。
しかし、長い。
ガタガタガタガタ
ガチャン
カンカンカンカン
ガッサガッサガッサガッサ
長くゆれるうちにいろんなものが動いたり落ちたりしてるのが、布団をかぶっていてもわかる。
えーーーーーっ
長すぎる。
心臓バクバク。
やっと揺れが収まってからRIOさん抱えて布団から出ると・・・
窓は開いてるし、机が動いて書類ケースやモデムは落ちてるし、シンセサイザーも動いて上にチョイ置きしていたタオルとか滑り落ちてる。
ローテーブルの上の化粧品落ちてる、チェストの上に置いてたおもちゃおちてる、引き出しあいてる、押入れのふすま開いてる、
間仕切りのふすま閉まりかけてる、
サイドテーブルから花瓶が落下してダイニングルームは水浸し。
冷蔵庫、食器棚は10センチほど移動、食器水切りかごは流しに落ちてるし、調理台に置いてたオリーブ油とごま油も流しに落下してる。
冷蔵庫の上に置いてたうどんは箱があいて中のうどんやつゆの袋がばらばらと床に落ちてる。
金造が景徳鎮の視察で入手してきた壷が割れてる。
オムツの浸け置き用に洗面所に置いてた風呂水のバケツがあふれて水浸し。
物置部屋は収納ケース類がずれたせいでドアが開かない。
ガタガタガタガタ
また揺れるからRIOさん置いて片付けるのもままならず、どこから手をつけてよいかもわからず、しばらく呆然。
電気はすぐに復活した。
テレビをつけたら、お宿付近は震度6強だって。ハフー
幸い、ここは電気も、ガスも、水道も止まらずに済んだからよかった。
翌日、お世話になっているスーパー三桝屋さんに行くと、入場制限中。
なんでも、スプリンクラーが作動してしまい、店内が大変なことになっているとか。なので、一つの入り口だけを開けて、その付近に当面必要そうなもの、お野菜とお惣菜やパン、水、ティッシュやトイレットペーパーなどだけを並べて、その他に欲しいものがあれば店員さんに頼んで持ってきてもらうって営業形態でした。
だいぶ片付けただろうケド、まだまだこんな状態だったし。
流血じゃないですよ、赤ワインです。タブン
毎日RIOさん抱えてお買物に行っている私はすっかり"顔"なので、新店長さんにも「おうち大丈夫でしたか?」って声をかけてもらったり。
こんな大変な状態なのにお店開けてくれてるだけでも嬉しいのに、本当に心遣いが嬉しくて涙じわりでした。
ガソリンが不足しているせいか、車社会の田舎にも最近は"歩行者"や自転車が多い。
自転車のオバサン連れが「市役所が窓ガラス割れたって言うんだから、相当よ〜」なんて言ってるのが聞こえたので、5日後、RIOさんとお散歩がてら見に行ってみた。
もう使えないんだとかで、機能は別館に移動してました。ンー。
昨日は行きつけの美容室の前を通ったらこんなことになっているし
ご近所は立派なおうちも瓦が落ちていたり、瓦が庭先に停めてた自家用車を直撃しているおうちもあったり、
はたまた、この辺りは大谷石を使った立派な塀のおうちも多いのだけど、そういうのはかなりの割合で崩れていたり。
母さん友達りんどうさんのおうちはトイレ損壊、あやめさんのおうちはお風呂が損壊して、赤ちゃんのお風呂もままならないとか。
なじみのタクシー運転手さんのおうちでは買ったばかりの地デジテレビが壊れたらしい。
ガソリンスタンド渋滞を避けるためか市バスがしまむらで曲がっていたり。
そういえば、東北道は今日からようやく一般車も通行可になったそうですが、当初は自衛隊の車しか走ってないから何だか戦争でも始まったみたいで異様です、って高速沿いにお住まいの方がおっしゃってました。
何だか色々です。
それにしても、計画停電、辛いです。
毎日RIOさんのお風呂の時間を変えなきゃいけないし、へんな時間に暗くなるからゴキゲン斜めで寝付き悪いし、
せっかく20時に寝て朝5時過ぎまでぐっすりのおりこうさんだったのに、最近は絶対夜中に起きちゃうし。
午前中停電の日はお店も午前中はお休みだからいつもの時間にお買物にも行けず、これまたゴキゲン斜めだし。アー。
東京23区の殆どが計画停電の対象外なんて納得いかない!
霞ヶ関はともかく、周辺の区はナゼ?????
だいたい住宅も企業も密集している地域で停電やった方が絶対かなりの電力量稼げるはず!!
こっちは未だ震度4の余震や、100キロも離れていない原発の状況、野菜、水、牛乳などいろんなことにびくびくしながら暮らしているって言うのに、一日2回も停電になる日もあるし。
フー。。。愚痴でした。
避難所の人のことを思えばと我慢していましたが、東京のことを思うとつい言いたくもなってしまいます。自分が停電のいたみを味わってないから、巨人のオーナーはあんなこと言ったりするんだと思うし。
それにしても、あの大津波は
最近は映像を見ることもめっきり減りましたが
本当に
"映画だと思いたい"
って、見るたびに言っていました。
今、海無し県に住んで、美味しい魚に飢えているので、「次はお魚が美味しいところがいいなぁ♪」なんて、転勤族の主人に言っていたのですが、海の近くは怖いな・・・って思ってしまいます。
あの、津波で瓦礫の山と化してしまった町たち、
一つ一つの町がどんなだったかは記憶ありませんが、旅好きな私はそれらの多くの場所を通ったことがあるはずなんです。
記憶に新しいところで浄土ヶ浜なんかは、3年ほど前だったか、おまわりさんが海辺で観光客のカメラのシャッターを押してあげているのを見たり、平和な思い出がありますが、ここも津波でやられていました。
だんだん被害が広がってくると他人事ではありませんが、
福島原発の周辺地域の農業、漁業、酪農、いったいどうなってしまうんでしょうか???
特に、福島、茨城はこれらが盛んなところですし、栃木も農業、酪農が盛んなところ。
土壌や水が汚染されてしまってお米も野菜も牛乳も魚もとれなくなったらいったいどうなってしまうんでしょう???
美味しいものがいっぱいで幸せだったけど、これからどうなってしまうのか、
私が思うんだから、きっと、それらに従事されている人たちはどんな思いでいるだろう・・・途方に暮れているか、苛立っているか、不安になっているか・・・
どこだったか、避難所になっている中学校の体育館での卒業式をテレビで見ました。
卒業生代表の男の子が卒業式の挨拶で「人生の試練と呼ぶにはあまりにむごすぎます」、と泣きじゃくりながら言っていました。
ものすごく怖い思いや、大事な人やものをなくしたりしたのでしょう。
でも、何とか前を向いて頑張ろうとしている彼らを見ると、
私には何が出来るのがわからないけど、とにかく彼らに恥じないように生きなければいけないなとは思います。
二週間近くの記憶を詰め込んだので支離滅裂でスミマセン