東日本大震災から1年・・・
2012.03.11 Sunday
あの日あの時、那須野が原のお宿でRIOさんとお昼寝をしていた私は阪神大震災のことを思えば大丈夫…と思いながら布団にいました。
でも、揺れはおさまるどころかどんどん激しくなり、布団をかぶって何も見えないけど、花瓶やらいろんなものが落ちている音にまたあの悪夢が来たかと、RIOさんを抱きしめて布団にくるまっていました。
思えばRIOさん、あの頃はまだ何もわからない年頃(6ヶ月)だからよかったですが、今だったらどうでしょう??
今日は鳥栖でも14時46分にサイレンが鳴りました。
いろんな人が亡くなった、いや、この時間はまだ生きていた人も、その後波にさらわれたり、原発事故のために探してもらえずに亡くなった方も大勢いた、いろんな想いが渦巻き、目頭が熱くなりました。
RIOさんと一緒にアーメン、なむーをしました。
“被災者を支援します”とは口先ばかりで、佐賀県はがれきの受け入れを出来ないと表明したとか。なぜでしょう???
ゴミ処理場のキャパが無いから??
それは、被災地だって同じこと、処理能力の100年分のがれきがあって困っている被災地もあるとか、その全部を引き受けろと言っているわけじゃないんだし、いくらか受け入れればいいと思うのに…
しかも、放射能の問題で住民の理解が得られていないとか言っていますが、話題にあがっていたのは岩手県と宮城県のがれき。
そもそも、放射能を帯びたがれきだとしても、原発がある佐賀県はそれを拒否出来ない立場なのでは???と思います。
玄海原発で何かあったら、こんなことでは誰も助けてくれないのではと思います。
もちろん、うちにも幼い子供がいますから、できれば何の心配もない環境で育てたいと思いますが…
今、被災地の方の、「うちに帰りたい」「高台移転どうするか?」「元の場所で農業や漁業をやりたい」などなどの悩みは私たちになかなか支援できないことが多いですが、がれきを受け入れることは、数少ない、私たちができる支援ではないのでしょうか??
それにしても、阪神大震災の後、神戸、芦屋、西宮ではさら地になっていたり、その後は新しい家がポツポツ建ちはじめたりするのを見るにつけ、「ああ、ここも地震でやられたんだな」と鳥肌が立ったものですが、東日本大震災では津波、地盤沈下、原発事故などで新しい家を建てることもままならないと聞き、平和な暮らしを取り戻せるにはまだまだ時間がかかるのだなぁと思います。
でも、よく、夢は強く持てば叶うと言うから、こんな暮らしがしたい、と思い描き、前に進んで行けるようになればと思います。
テレビで胸が痛む話を見ました。
私と同世代の女性が働きに出ている時に被災し、年老いたご両親が泣き叫ぶ子供を車に乗せ、津波から逃げる際、車に乗り遅れた母親が「早く行けー!こっち見るなー!」そして助かった子供のことを「生きろよー!バンザーイ!バンザーイ!」と喜びながら波にのまれていったとか。
それまで仲良く暮らしていた家族だったが、女性は父親が母親を見殺しにしたという思いばかりが募り、わだかまりが消えないと言う。
たいせつな人を亡くしただけでも悲しいのに、そんな思いに苦しんでいる人もいると思うと本当に胸が苦しくなります。
きっと、その女性も頭のどこかでは母親の気持ち、父親の気持ち、わかっておられるんじゃないかと思いますが、心からお父さんを許してあげられるようになるためにきっと時間が必要なんだろうって思います。
そういえば、今朝、NHKで震災のその後のことをやっている途中、九州では“特報フロンティア”という九州版の特別番組で玄海原発の対策の番組に切り替わりました。九州にだって避難してきている人もおられるんだし、玄海の話は今日でなくてもいいのだから、そのまま震災の番組をやればいいのに…悲しい気持ちになりました。
ふうっ…
今日もまた、支離滅裂。
兵庫県にいる時に阪神大震災、栃木県にいる時に東日本大震災に遭い、
二度あることは三度ある、三度目の正直…
今度こそ命はないのではないか…そんな気持ちにもなりますが。
わかりませんね。