昨秋、姉がくも膜下出血で亡くなりました。
くも膜下出血は2度目の破裂を防ぐことが出来れば、一命を取り留められることもあるようですが、姉の場合は病院に運ばれた時はまだ医師の質問に反応があったそうですが、処置中に血圧の急上昇・下降があり、おそらくそこで2度目の破裂があったと思われ、その後は反応が無くなったそうです。
手術の際は、年に何十件とくも膜下の手術をしている先生ですら、見たこともないほど脳が血液でパンパンに腫れていたそうです。
私の実家は電話嫌いなので、実家から電話があるということは余程のことが無い限りないので、あの日、電話口で母から
「大変なことになったの」
と言われた時、正直、父が倒れたとかそういうことだと思いました。
そりゃそうですよね、年齢的に、順番的に…そう思うのが普通でしょう??
姉は特に持病があったわけでもないし。
姉とはいろんな事情があって疎遠になっていたのですが、数年前私が結婚したのに合わせて、父が父方の親戚を集めて、姉と私の結婚のお披露目会をしてくれました。それから、いずれ両親もいなくなるから、姉とたった二人の姉妹、これからは手をたずさえて行かなくては…と思っていた矢先のことでした。
そんな思いを伝えることもないまま、1か月を待たずして姉は亡くなりました。
ちょうど那須野が原から鳥栖へ引っ越す途中、姉を見舞うつもりでいた日の朝のことでした。
姉のご主人もその前年に癌で亡くなっていたので、姪のHANA(当時小6の姉の娘)を私の両親がひきとり、育てることになりました。
「お父さんも頑張らなきゃね…HANAが成人するまで??あと8年?」
「いやぁ〜そこまでは…」
と言っていた父、とりあえず小学校だけは当時通っていた大阪で卒業させてあげて、それから実家の名古屋で暮らす予定でした。
でも、やはり、年老いてからの慣れない高層マンションでの暮らしはこたえたようで、今年の1月末、亡くなりました。
不思議なことに、その日、主人が段ボールの荷物を突然整理し始め、父から以前にもらった本をどうしようか、話していました。結構著名な人の本だと主人が言うので、「それならもう少しとっておいたら?」(心の中では、せめて父が亡くなるまでは…と)と話していたんです。
そして、四十九日の法要の時に来て下さった、父が勤めていたころの秘書の女性も、めったに体調を崩すことは無いのに、父が亡くなった日は今までにないくらい肩が痛くなって、仕事を休んだんだとおっしゃっていました。
大阪にいる間にお会いしたいと、父がその方に手紙を出していたらしく、でもまだ会えないままだったので、父が会いに行ったのかもしれません。
不思議な話と言えば、母が「どうも人と言うのは自分では気づかないうちに、自分の余命には気づいているんだと思うの。お姉さんも、お父さんも、死ぬ前に急に人恋しくなったかのようにいろんな人に会いに行ったり、連絡を取ったりしていたみたいだから…」と言っていました。
お宿の敷地の隣が営業車などの中古車のディーラーなんですが、そこに父が勤めていた会社のマークが入った古いバスが運ばれてきたのにも驚きました。
あれから1カ月ほどは、父と同じ年恰好のおじいさんを見るとか、何か目にするたびに父のことを思い出して涙が出ました。
RIOがお話ができるようになったり、歌が色々歌えるようになったりするたび、父に聞かせたかったなー、と思ったり。でも、言い出したら花嫁姿を見せたかったとか、キリが無いので、まあ孫の顔を見せられただけ十分親孝行はしたかなと、思っています。
初盆と言っても特別なことはしませんでしたが、父が毎年お盆の墓参りの時に帰りに買って帰るのを楽しみにしていた“
かわしまや”の草餅だけはどうしてもお供えしたく、だいぶ寄り道になりましたが買ってからお墓に供えました。お寺の方の話では「そこに私はいません、眠ってなんかいません〜♪」と歌にあるように、お墓には魂は無いそうですが…
1月の中旬に、父が送ってくれた飛騨の豆菓子、
最後の一袋が食べられずにいましたが、そろそろ食べようかな…