ぺーさんの太く短い人生
2010.05.26 Wednesday
昨日、辞めてからもう何年も連絡を取っていなかった大阪の元勤務先の先輩から突然電話がかかってきた。
「ぺーさんが今朝亡くなった。」
ぺーさんが脳腫瘍で入院したという噂は2月頃に聞いていたが、その頃は私自身が体調を崩し、生きる希望も失うほど精神的にも病んでいたのでそれどころではなかった。
大阪に行けるくらい元気になったらお見舞いに・・・と思っていた矢先の連絡だった。
肺癌が脳、膵臓、リンパまで転移していたとのこと、
45歳のあまりにも早い死だ。
お通夜やお葬式の後、皆で故人を偲んだりするものだが、未だ体調がすぐれない私にはお葬式に行くことも出来ないのでひとり、ぺーさんの思い出にひたっている。
ぺーさんは大学進学を目前にした高3の時子供が出来てしまい、進学を断念、結婚して就職した。
高卒で就職して、工場でプラスチック成形を担当していたが、向上心が強く、常に改善、改良、新技術の確立などに努め、射出成形技術では会社で一番の腕を持っていた。
泉佐野にあった工場が無くなってからは本社で普通は大卒の人が配属される生産技術課に移り、さらにその成形技術を買われて上海工場立ち上げの時、30代の若さで副総経理に抜擢された。
だんじりで有名な泉州の男で、祭が大好き。
だんじりの季節(練習時期も)には出張は入れない徹底ぶり。
上海赴任も"だんじりの季節は帰らせて下さい"と言う条件付で飲んだとか。
酒もタバコも好きで、まさに男気にあふれた人だった。
どんなに仕事が出来る人でも、たまには弱音を吐いたり、やる気をなくしたりすることがあるものだが、ぺーさんは全く無かった気がする。
常にやる気に満ち溢れ、眼光鋭く、いい意味でギラギラしていた。
四国の工場は以前は技術的にもう一つだったと記憶しているが、ぺーさんが指導した影響もあり、どんどんよくなった。現場の作業員にとって、自分たちと同じように高卒で現場で技術を身につけたぺーさんの言うことには説得力があったのだろう。ぺーさんの姿に触発されて、改善意欲のある青年も増えてきた。
ぺーさんとは新製品の開発・試作のために毎月の様に四国の工場出張に二人で行った。朝は6時くらいにうちまで迎えに来てもらい、高速で2時間半ほどだっただろうか・・・
仕事が終わると、当時はまだあの辺にビジネスホテルもあまり無かったから、町営の宿泊施設みたいなところに泊まって夕食を食べながらビールを飲んだ。ある時は近くの温泉宿に泊まったら「ぺー様ご一行様」と看板が出ていてビックリしたり、年恰好が似ているのでカップルか不倫旅行とでも思われたのか案内の女性に「アレ?お部屋別々ですか??」って言われてビックリしたり(思いっきり二人とも作業服だったのに・・・)
ブランド志向で「高いもんはええもんや」と言うのが口癖だったり、何故か"ランセル"のジーンズが好きだったけど、残念ながら足が短いので高いのに20センチ以上裾を切らなきゃいけないのが悔しいと言っていた。
若いのに骨董や盆栽が好きで、立派な純日本家屋のお宅にお邪魔すると、ぺーさん趣味のものと、洋花のプランターなど、明らかにこっちは奥さんの趣味ですね・・・とわかるのが面白かった。
愛犬と一緒にベッドで寝るため、ベッドを二つくっつけて、ほぼ正方形状態で寝ているが、ぺーさん寝相が悪く、朝起きると180度逆になっていることがあるとか話していた。
角刈りで目がギョロッとして、自信に満ち溢れた姿は、今年阪神にやってきた城島にそっくりだった。
試合中継で城島を見るたび、ぺーさんを思い出した。
ぺーさんはメガネをかけた風貌が中国人ぽいので"ぺー(北)さん"と、飲み仲間が名づけたんだと言っていた。
ぺーさんのことを思いながら、あの頃、一緒に仕事をしていた取引先のみつひろさんにも5年ぶりくらいに連絡してみた。四国での試作にも立ち会ってもらったり、夜遅くまで打合せをしたり、その後飲みに行ったりしたものだ。
みつひろさんも「ぺーさんと仕事をしていたあの頃が、がむしゃらで、一番楽しかった気がするなぁ」と・・・
何だか同じ気持ちを共有できた気がして、また涙が出てきた。
こうして、久しぶりにみつひろさんと語り合えたのも、ぺーさんがつないでくれたご縁、大切にしたいです。
昨日、連絡をくれた先輩が「朝、顔を見に行ったけど、安らかな顔しとったで、今にも話し出しそうやった」と言っていたのが何より、救いだった。
今の私はお別れにも行けないけど、お宿から、大阪の方、南西へ向き、手を合わせています。
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